テーマC-09 米国IT動向とベンチャー事情
** 欧米の先端ベンチャーとの交流 (録)**
                 著者: 石黒 功
元ケイアンドアイインターナショナル 代表取締役 (元NEC勤務)
私のプロファイル

    ***本内容は2020年にNPO法人 JECK(国際協力専門家コンサルティング)が明治学院大学国際学部向けに
        実施した講座「国際協力の現場」(全15回)の中で行われた講義を文章化したものである***

  目次
   1.時代背景
   2.欧米ベンチャーとの交流
   3.欧米ベンチャーに対する日米の評価の違い
   4.VISA(就労ビザ)について
   5.米国での生活(California VS New York)
   6,参考資料
    ①世界の技術力・研究開発力ランキング
    ②コンピュータとインターネットの歴史
    ③VC投資動向

   
1.時代背景
私は1994年の12月に米国に赴任してから2010年の4月に米国の仕事を離れるまで15年の間米国のITビジネスに関わって来た。その間最初の 5年は大手IT企業NECの米国法人で、次の10年は自分の会社 (株)ケイアンドアイインターナショナルで仕事をしてきたが、その時代はIBMを中心とする メインフレームが衰退し、サーバーやパソコンのオープンシステムがシステム構築の主流になった時代であった。そしてMicrosoft、HP、Sun、Apple、 CISCO、Oracle、Intel等の第一世代のベンチャー企業がその地位を確固たるものにしていた。(コンピュータのメインフレームからオープンシステムへの 変遷については”こちら”を参照 されたい。)次に1990年代にインターネットの技術が誕生し、90年代半ば以降になると関連する多くの新しいベンチャー企業が誕生した。
5年のNEC米国法人では米国技術の国内導入やアライアンスの推進、国内向け対応(研修サポート、顧客訪米時の対応)を、10年の自社ではNew Yorkにオフィスを構え(後半4年は東京オフィスを併設)、 バイリンガルエンジニアを採用して、米国ベンチャー企業の日本ビジネス開拓、ソフトウェアの開発請負、エンジニアの派遣、米国発ITレポートの発行. 日本企業へのコンサルテーション等を行ってきた。その間に多くのベンチャー企業と接する機会があったが、彼らとの交流を通して得られた経験をまとめて みたい。また当時の仕事の内容に加えて、現在彼らの状態がどうなっているか改めて調べてみた。

多くのベンチャー企業はVC(venture capital)の資金で事業運営するが、VCの投資は、angel/seed-stage(平均投資額2M$)、early-stage(同11M$)、 late-stage(同30M$)と段階的に行われ、stage毎に専門とするVCが異なる。このようにVCの手厚い支援の仕組みがベンチャー企業のリスクをヘッジする 重要な役割を果たしている。そしてベンチャー企業の最後(Exitプログラム)は上場(IPO)するか、大手企業に買収(M&A)されるかが彼らの目標となる。 米国ではIPO20%、M&A80%と言われている。(日本ではIPO70%、M&A30%)米国でM&Aが多いのは大手企業が有望なベンチャー企業を自社の強化のために早めに 買収するためで、ベンチャーにとってもExit迄の時間が短縮される利点がある。また最近では、ベンチャー企業やVCが経営権を維持したいという理由から ユニコーン(創業10年以内、未上場、評価額10憶ドル以上)も増加している。
米国の大学では、No.1卒業生はベンチャーを作り、No.2、3はベンチャーのマネジメントで働くと言われているが、リスクを恐れない彼らのベンチャー スピリットや企業家精神(アントレプレナーシップ)によってイノベーションが支えられている。そしてMicrosoftやAppleのような第1世代のベンチャー から始まり、米国ITテクノロジやビジネスは大手企業ではなく、多くのベンチャーが開発してきたが、その流れはFaceBookやGoogleのように今日まで 続いている。
当社が手掛けたベンチャー企業の多くはVCとベンチャーのネットワークの中で紹介されたものであるが、そのような優秀な人達と仕事を通して熱い交流が 出来たことは何にも増して貴重な経験であった。

   
2.欧米ベンチャーとの交流
(1)Dodge Inc.(London郊外)
金融機関向けの会計用DWH(Data Warehouse。財務/管理会計のための長期にわたる膨大なデータの管理 /分析)ソフトウェア会社で、米国やヨーロッパの大手金融機関に実績のあるベンチャーであった。当時は世界的に金融の自由化が進み、金利や債券の自由化に 加えてサブプライム(低所得者向け)住宅ローンを証券化したような極端にリスクの高い商品が販売され、そのバブル崩壊とともにリーマンショックのような 金融危機を招いた。リーマンショックは2008年に起きたが、当社も大きな影響を受けた。
また国際化も進み、日本の金融機関も厳しい国際競争の波に さらされ、10数行あった大手銀行(都市銀行や長期信用銀行)が合併、吸収を経て数行に集約され、証券業界でも4大証券の1社が倒産するなど金融業界は 激変の時代であった。私は米国赴任前は金融システム事業部の営業部長にありその間3年は都銀を担当した。その頃は都銀も10行残っていて色々な営業を行っ たが、その中で協和銀行と埼玉銀行に対し住友銀行で開発されたバンキング端末の営業に力を入れていた。この端末は伝票を直接読む当時では画期的なもので 両行ともに関心が高く、営業にも手応えを感じていたが、その両行がある時突然合併を発表し驚かされた。そして我々の営業も白紙になり、苦い思い出で あった。
このような市場環境から収益管理やリスク管理のような経営管理の高度化が必須となり、そのためのソリューションの導入が急がれていた。この会社はNEC 米国法人時代に私が最初に手掛けた案件であり、日本向けのみならず、住友銀行(現三井住友)のニューヨーク支店で次期海外店システムの開発が検討されて いたため日米にまたがり営業を行った。住友銀行では残念ながらOracleに負けて導入には至らなかったが、日本では大和証券の担当営業が頑張ってくれて 何とか導入された。この間、ロンドンには数回、加えてユーザ会が開催されたスペインに出張する機会が与えられ、またニューヨークや東京への出張もあり、 その機会を通して彼らとは随分と親しくなった。30~40代の経営者の集まりで英国紳士的とは異なり、ヤンキータイプのザックバランな人達であった。 同社はその後米国の中堅会計ソフトウェア会社に買収された。

(2)Marcam Solutions Inc.(Boston郊外)
米国の中堅ERP(Enterprise Resource Planning。販売/在庫/生産管理や会計の企業内基幹システム構築) ソフトウェア会社で、当時は自社開発に代わりパッケージ導入が増えてきていた。SAPやOracleがERPパッケージベンダの大手であるが、この会社はその大手に 対してテクノロジー(オブジェクト指向。プログラムをオブジェクトという小さな部品単位で開発し、改造や拡張を容易にする技術。既製品のソフトウェア パッケージに適用することでカスタマイズを容易にすることが可能)で対抗していた。当時すでにNECは国内のディストリビュータになっていたが、米国で NECのSI(System Integration)ビジネスを立ち上げたいと言う目的で米国でのJV(Joint Venture)を設立した。このビジネスは日本の製造業担当事業部が 5M$を投資して主管したもので、我々は米国でサポートする立場で参加した。彼らとの交流はそれほど密なものではなかったが、その中でもEVPとは親しくなり そのコネで後述するCAMINUSの日本向けビジネス開拓の仕事を獲得できた。同社は2004年にSSA Globalに買収された。

(3)Nexidia Inc.(Atlanta)
音素(音声、厳密には音韻の最小単位。音韻は音の音色や響きを抽象化した言語音)で音声認識を行う新技術により認識率を大幅に改善し、従来難しかった 音声認識の実用化を実現した(10か国以上の言語で電話傍受に適用)。私が赴任した翌年の2001年に起きた9.11テロ事件後に発効した米国愛国者法 (Patriot Act。2011年一部延長、2015年延長期限切れによる失効)に基づき、電話傍聴などのセキュリティに対し政府にかなりのフリーハンドを与えた法律で、 この法律に基づき米国政府のセキュリティ開発予算が増強されたが、その恩恵を受け急成長していた。当時はこの技術を民需(コンタクトセンター)に転用する ため新しい開発を始めていた。自社になって最初に手掛けたベンチャーで幸いにもNECの交換機グループが日本のディストリビュータになり、当社が周辺アプリ ケーションや日本語辞書の開発を担当させてもらった。
当時はクロスバー交換機が主流でNECは 世界でも有数の企業であったため、Nexidiaソフトは本来コンタクトセンター向けのソリューション(カスタマーの クレーム分析等)として利用されるものであったが、NECでは交換機付属の単純検索ツールとしてしか利用されなかった。この数年後にはクロスバー交換機 (ハードスィッチ)はソフト交換技術(IP(Internet Protocol)通信利用のサーバー)で置き換えられ、NECのビジネスも大幅に縮小したが、もしソリューション として商品化されていればソフト交換ビジネスの大きな付加価値になったものをと残念に思っている。
彼らは地元アトランタの人たち(ジョージア工科大学出身者が設立)で、南部の素朴な人柄の持ち主であり気楽に付き合ってくれた。当社のエンジニア2名が 開発に参加し、大変密な交流をさせてもらった。同社は 現在はコンタクトセンター向けソリューションベンダーの大手に買収されているが、今でもAI利用等 新しい開発に積極的に取り組んでいる。

(4)iWay Software Inc.(New York)
当時はシステムの多様化にともない複数システムによる分散処理が急速に主流になっていた。例えば、金融機関ではコアの勘定系システム(預金、為替、融資、 会計)に加えて、情報系システム(顧客管理や収益・リスク管理)、証券システム、新商品対応システム(デリバティブ等の金融派生商品)、など10以上の システムで構成され、相互にデータを利用するデータ連携が必要であった。そのため異種システム間の結合アダプター(IBMやSAPとの接続) とそれらを 統合管理するシステムインテグレーションのソリューションが重要 になる。
同社は結合アダプターに加えて、eBusinessやネットワークインターフェイスなどのアダプター/コネクターやDBコネクタも多数提供し、データ連携やビッグ データ構築のためのプラットフォームベンダであった。
この会社は最大手のベンダーでありオーナー会社で、当時すでに New Yorkマンハッタンの真ん中にオフィスを構え、700人を超える中堅企業であった。 開発部隊を含め全社員をマンハッタンの中で雇用するのは相当利益が出ていないと困難で驚かされた(価格もかなり高価であったが)。日本のカスタマーは 結合アダプターの完成品ではなく、システム間のインターフェイスを個別開発する傾向があり営業には 苦労したが、それでもNECソフトに導入できた。 当社のエンジニア1名を研修のため半年ほど受け入れてもらった。当社の窓口になったのはばりばりの東部エスタブリッシュメントのVPであったが、ハートの ある人でもあった。現在でも会社名も製品名も同じまま健在である。

(5)CAMINUS Corporation(New York)
電力会社のトータルソリューションで、欧米では電力業界の自由化が進んでいて、発電会社、送電会社、販売会社が完全に独立運営されている。そして市場 (Market)が形成され、電力は発電会社と販売会社の間で市場取引され(大口顧客への直接販売もあるが)、取引された電力は送電会社の送電線を経由して 数分単位に 行き先制御(パイプライン制御)されながら販売会社や顧客に送電される。
CAMINUSは英国の市場システムの設計を担当した大手のベンダーで、NECがJVを作った 時の相手側のEVPだった人が社長になっていたためそのコネで日本向けビジ ネス開拓を担当した。同社は電力向けソリューションに加えて、天然ガス、ガス、石油、石炭、エミッション(大気汚染物質)、天候デリバティブ等のエネルギー 関連の全商品を対象に、オペレーションや会計処理から意思決定支援、リスク分析までのバリューチェーン全体のソリューションを提供していた。
当時日本でも電力自由化の機運が高まり、大阪瓦斯や 三菱商事(傘下に発電会社を持つ)が関心を持ってくれたが、その時には本格的な自由化(送電会社の 分離独立)が見送られ、日本での導入には至らなかった。現在はNASDAQに上場されている。

(6)Media Publisher Inc.(California Berkley)
マルチストリーミング(ライブ)やダウンロード(オンデマンド)の技術でビデオを配信する企業内映像情報システム(役員やスタッフから社員や外部への ビデオと付随資料による情報伝達 や教育、広報)を構築 するソリューション。 当社は日本語化を担当し、NECとSony、CTCにアプローチしたが、一般企業の ビデオ配信による映像情報システムは日本では時期尚早と いうことで導入には至らなかった(NECとSonyは放送の ようなメディア業界でのビデオ配信は既に 実用化していた)。
CEOはUC(University of California) バークレー出身の西部フロンティア精神に富んだ人で、日本に来てカスタマーを回ったり、ゴルフで有名なペブルビーチ で開かれたユーザ会にNEC金融システムの 幹部に出席してもらい、彼がディナータイムにピアノを演奏し当社の女性エンジニアが魅了されたり(彼は今NECの役員 をしている)、北海道NECソフトの社長に 訪問してもらったり、印象に残ることが多かった。現在同社の名前は見当たらないが、当時から大手の買収話があり 買収されたものと思われる。

(7)Time Cruiser Computing Corporation(New Jersey)
インターネットを利用して学校の管理(授業スケジュールの配布や宿題のやりとり、授業料支払、授業ビデオ配信、等)を行うeCampusソリューション。現在では、 日本でも学校でのインターネット利用やオンライン授業は当たり前になっているが、当時(20年前) NECや ベネッセに紹介したが時期尚早であった。現在は New Jerseyの同じ町にCampus Cruiserという会社があり、もしかしたら後継かも知れない。

(8)Yellow Dragon Software Inc.(Canada Vancouver)
当時はeBusiness(B to B EC (electronic commerce)、インターネット上の企業間電子商取引)が大ブームで、XML(eXtensible Markup Language。HTMLと 同様にマーク付きの言語)ベースのeBusiness platformの開発が盛んであった。当社は最初はVancouverのあるベンチャーのソフトをかついだが、そこが上手く 行かなくなり、次に手掛けたのが同じVancouverのこの会社で国連(UN/CEFACT)でebXMLという業界標準仕様を開発していたチームが独立して立ち上げた会社 である。前述のiWay SoftwareがOEMでセールスしていた。最初のベンチャーも併せNECやNTTデータ、三菱電機に紹介したが、導入には至らなかった。 2003年にアドビシステムズに買収されている。

(9)eQuanxi Inc.(California Palo Alto)
やはりeBusiness platformベンダーで香港に開発拠点を持つearly stageのベンチャー企業。伊藤忠商事が関心を持ってくれてVC投資を含め検討してくれたが 締結には至らなかった。社長以下中心メンバーはアジア系で、香港にも行き開発部隊とも接し、何とか応援したかったが。現在同社の名前は見当たらない。

(10)Group Intelligence Inc.(New York)
Middlewareソフトで一度成功している(Sybaseに売却)人がB to B企業間情報交換サイトをビジネス化したいということでスタートアップの協力を依頼され、 日本のVC数社を紹介した。しかしこのステージの企業に投資するVCを見つけることは出来なかった。彼は子供のサッカーチームを熱心に応援するナイスガイ であったが、仕事になると周りがへきえきするほどしつこく、なるほどベンチャーを立ち上げるにはそのくらい執着心(闘争心)を持たないとできないのかと 納得した。自己資金で開発していたが、現在同社の名前は見当たらない。

(11)日本人のベンチャー達
最後に米国で成功している日本人ベンチャーを紹介したい。カリフォルニア Palo Alto(スタンフォード大学がある)で日系企業を対象にコンサルテーションを している会社。スタンフォード大学マスター(MBA)出身でソフトウェア会社を立上げ、日本の証券会社のシステムを受託している会社。NEC米国法人で長年勤務 した人が独立し、DBトレースシステムを開発して大手DBベンダーに売却した会社。ニューヨークで日系企業相手にネットワークSIを行っている会社。
彼らとは仕事での交流は無く個人的な付き合いであったが、米国という厳しい環境でビジネスを成功させた人達である。

   
3.欧米ベンチャーに対する日米の評価の違い
以上のように当社はスタートアップ前から既に出来上がっている企業まで色々なステージのベンチャー企業に関わってきたが、その多くはそれぞれの分野で一流 であり、米国では十分成功している。しかし日本では残念ながら余り成功していないが、その原因を分析すると以下のことが言える。
(1)いくつかのビジネスは日本では時期尚早
しかし、これは日本の規制緩和の遅れがイノベーションを阻害している要因。前述したベンチャーではCAMINUSが良い例で、日本の電力業界は地域別に10社が独占し、 特に、送電網を各電力会社が占有している。このため新エネルギー等の新規参入が困難、電力価格も国際的に割高と指摘されている。電力以外でも、行政、教育、 医療等の官の規制が強い分野ではイノベーションが他国に比べ遅れ気味である。
(2)日本の大企業はベンチャーに慎重でリスクを避ける傾向
しかしこのことは新しいテクノロジーやビジネスモデルに対する取り組みが遅れることを意味し、日本のIT産業が国際競争力を失って行った遠因と思われる。 また、当時から欧米ITベンチャの提携や買収に積極的に取り組んでいればグローバルなビジネス展開で大きな収穫が得られたのではないかと思われる。 前述したベンチャーでは、下記が代表的と言える。
① Media Publisher:現在ではインターネットのサイトから会社や製品のPRに動画を流すのは一般的であるが、当時(20年前)は時期尚早。 またYouTubeやNetFlixのように動画サイトが誕生しているが、日本のIT企業は新しいビジネスモデルの創出にも後れを取っている。
② Time Cruiser Computing:現在では大学でのインターネット利用やオンライン授業は一般的であるが、当時は時期尚早。
このように日本企業が米国ベンチャーに対し慎重な一方、米国企業は有望なベンチャーを積極的に買収し、自社の競争力を強化している。
(3)日本企業は自社開発を好み完成品(パッケージ)導入を嫌う傾向
この点で印象に残っているのは、前述した住友銀行(現三井住友)の 海外店システムである。フルバンキングシステムをベンダーの異なる数種類のパッケージ (預金/為替、融資、会計)をミドルウェアでつないで実現したことには驚かされた。
日本のフルバンキングシステムは数百人から1,000人規模で自社開発(または複数金融機関による共同開発)されている。
米国企業の合理性が窺える。
同時に日本のIT企業のSIビジネスは個別開発型が多い現実を物語っている。(個別開発は工数仕事が多く、付加価値やイノベーションを生まない) 前述したベンチャーではiWay Softwareが良い事例であり、システム間インターフェイスやデータ連携を日本では個別開発することが多く、ソリューション導入 することは少なかった。最近では、欧州標準のFIWAREが注目されているが、個別開発ではiWayやFIWAREのような標準プラットフォームは決して生まれない。
(4)ベンチャー資金調達における圧倒的な差
後述する参考資料で説明するように、まずVCのベンチャーに対する投資額は50倍(金額ベース)、また大手企業のベンチャーに対するM&A投資は16倍 (件数ベース)(何れも2017年)。このように金融市場における日米のインキュベーション(ベンチャー育成)の力に大きな差がある。

   
4.VISA(就労ビザ)について
次にビザについて経験したことを説明したい。NEC米国法人ではLビザ(駐在員向け)、自社ではH1-Bビザ(専門技能職向け)を取得した。(他にEビザ (貿易、投資)やFビザ(学生)がある)。H1-Bビザは1回目5年、延長は1回のみで5年(現在は共に3年、計6年に短縮されている)、毎年6万5千人が 上限である。私が取得した当時(2000年)は応募者はそんなに多くなく、2ヶ月程度の間に応募すれば取得できたが、年々厳しくなり、数年後には受付開始 から応募が殺到し、2日間で2~3倍の数になり、抽選になる。当社でも数名応募しても半分は落選し、やむなく東京オフィスを開設した。応募が多い理由は 米国外からが多数なためで、これを見ても海外の会社(特に中国とインドのIT企業)が米国に人を送り込み、米国の技術やノウハウを習得することに必死だ ったことが分かる。

   
5.米国の生活(California vs New York)
15年の米国との関わりの内、最初の4年はCaliforniaを、次の11年はNew Yorkを拠点にして仕事をしたが、最後に仕事を離れて米国での生活について 触れてみたい。
CaliforniaではオフィスはSan Jose(シリコンバレーの中心)、住まいはCupertino(Appleの本社がある)であった。オフィスはCISCOの隣で当時急成長して いた同社のビル(2階建て)が毎年2~3個増えて行くのには驚かされた。住まいは、ロータリーに10数軒の家が立ち並び、1つの小さなコミュニティを 作っていて(米国では道路(avenueやstreet)沿いにアドレスが振られていてコミュニティになりやすい)、多人種の人が仲良く生活していた。移民も多く、 英語教育も充実している。公立の短大のコミュニティカレッジには高校卒業の資格があれば誰でも入学でき、好きな科目を選択できる。カレッジはESL (English Secondary Langage, 英語を第二言語とする人たち)コースと一般コースに分かれ、ESLを卒業すれば何時でも一般コースに移れる。ちなみにうちの 奥さんはコミュニティカレッジに4年通ったが(内2年はESL)、カレッジでは地元の短大生が一緒でその中で日本のおばさん2人が先生の真前の席を占拠して いたと笑っていた。このように開放的なところがCaliforniaの良さである。一方厳しさもあり、米国企業では成績の悪い下位10%の社員を毎年整理するところ が多く、それがマネージャーの仕事であり彼らのプレッシャーになっている。(Intelに勤めるマネージャーの話)

次にNew Yorkに移ったが、オフィスはNEC時代(1年間)には今は無きWTCの40数階に、その後はエンパイヤステートビスの近くにあり、どちらも高層なため 煙草を吸うのも一々外に出て大変だったことを覚えている。家は最初の1年はマンハッタン、その後はNew Jerseyのアパート住まいでかつこの頃は日米半々の 生活であったため余り周りの人との交流は持てなかった。このためご近所付き合いは日本人同士になりがちでアメリカ人との交流は仕事中心にならざるを得な かったが、仕事も皆が忙しく競争しているようで息が抜けなかった。しかしこれがNew Yorkの良さかも知れない。

   

【参考資料】

 



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