3.錯綜するIBM関連情報

私の所属する第3部307ユニットは日立・中央研究所時代からOS研究・開発を行ってきた伝統的な部署である.このため研究テーマはほとんどがソフトウェア工場のシステムプログラム部(略して;シプ部)からの依頼研究である.当時は大型コンピュータ用OSであるVOS3(Virtual Operating System 3)に関する各種の研究を私が中心になり推進していた.特にVOS3の高性能化機能の開発ならびにメモリ管理関連の研究に重点をおいていた.またソフトウェア,特にOS開発の治工具(OSTD:Operating System Test Driver)の研究開発も行っていた.これらの関係から依頼元との情報交換は緊密であり,重要な情報は知らされるようになっていた.この事件が起こる1年ほど前からは3081KやMVS/XA(IBMではMVS/SP2と正式には言っていた)関連の情報が入っていたが,確たる事実であるか否かは不明の情報もあるが,これらの情報を元にいろいろな想像を巡らしていた.

我々はIBMの技術動向を知るためにIBMが定期刊行物として発行していたIBM Systems Journal, IBM Research and Development, そしてIBMが定期的に国立国会図書館に公開している IBM Technical Disclosure Bulletin(IBM TDB: IBMは特許として申請する価値はないと見做しているような発明は,他社に同一のアイデアを特許申請されてしまうことを防止するために,この冊子にまとめて開示し公知とする報告書)などを最新情報として調査していた.IBM TDBには上記の定期刊行物で発表されているような技術的特徴点なども数多く含まれていた.これらの情報以外にも日経コンピュータなどの雑誌,そして日経・IBMウオチャーなどにも目を通していた.またイリノイ州立大学シャンペーン校の 室賀三郎 教授から定期的に送られてくるいわゆる室賀レポートにも目を通していた.このように我々の顔はIBMにだけ向いており,国内の競合他社と言われる企業には無頓着であった.後に,情報処理学会で知り合いになった富士通の方からも室賀レポートの話があったので,室賀教授は日本に複数のクライアントを持っていたことが分かった.

1981年,正確な時期は定かではないが,Adirondack Workbookなる冊子が秘密文書として管理職に流されていた.後にこの情報の正確な名称は,Adirondack Hardware Design Workbookであることを知った.システム開発研究所では我々の職場にだけに配布されていた.UL(Unit Leader:課長に相当)の久保隆重と私はこれらに目を通すことができた.12冊のワークブックがあったと記憶している.各々の巻(Volume)の詳細は記憶にないが,ほとんどの文書は既に学術誌などに公開されているコンピュータアーキテクチャに関する研究論文であった.中には既に読んだものも多くあった.つまりIBM 3081Kに直接関係する内容ではなかったように思えるが,当時のコンピュータ技術の最先端の状況を把握する論文集とでも云うような位置付けでIBMが作成したサーベイではなかったのか.しかし,一部は上記のIBM TDBの内容その他の3081K情報などと符号するものもあったがAWが3081Kに特化した技術文書である確証はなかった.

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AW以外の情報の中で特に印象深い数枚の文書を記憶している.ある日,ある事業部の幹部から数枚のコピーがマル秘で回覧されてきた.このコピーには斜めに IBM CONFIDENTIAL と大きな文字が(オリジナルは透かしの入った用紙だと思うが)書かれていた.IBMはゼロックスコピーしても浮き出てくる用紙を使用していたのであろう.この内容は拡張アドレッシングに関する情報であり,3081KらしきコンピュータのPSW(Program Status Word:コンピュータの最も基本的な情報であり,内容はCPUの状態:(status)を示す各種フラグ類が32ビットそして次の32ビットには命令をフェッチするアドレス(NIA: Next Instruction Address))の詳細が書かれていた.NIAは31ビットアドレッシングをすることを意味しており先頭の1ビットは31/24ビットアドレッシングの切り替えを意味するフラグで bi-modal (両モード)オペレーション用に用意されていると記述されていた.これらからまさにこれは3081Kの紛れもないアーキテクチャであると信じるに足る内容であった.

後に刑事訴訟を米国FBIから起こされるが IBM CONFIDENTIAL の書類について各種の証拠がIBMから提出される.この書類は匿名の封書である事業部の幹部宛に送られてきたものであった.これを開封した幹部は内容が上記のような情報であり3081KのPSWであることを容易に想像できたので驚き,さっそく関係者に回覧したというわけである.しかしこの文書のコピーの回覧ルートは裁判の証拠としてIBMから提出されていたと関係者から聞いている.つまり日立内部にも通報者が居たのではないかと思われる.ちなみに,日立では非組合員になると社員名をカタカナ1-3文字で表示する慣例があった.私が主任研究員の時はは吉澤なので(ヨシザ)である.主任研究員の場合,多くは3文字で部長クラスは2文字,事業所長以上のクラスは1文字である.私は主管研究員に昇格した時は(ヨシ)であった.これらのカタカナは◯で囲んで標記することになっていた.当時の社長は三田勝茂であり(ミ)は社長を指している.社内便でもこの略語が使われていた.回覧はこの◯に囲まれた略称がずらりと並んでいたため,これを見れば回覧ルートが一目瞭然であった.

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この裁判の過程で我々日本人のほとんどが知らなかった法律が米国にはあった.それは TRADE SECRET法である.この法律は,明らかにある企業のマル秘とされている情報を理由もなく受取った,あるいは手に入れたことを認識した場合,その内容を見ること無く,即刻その保有者に返却しなければならないという法律である.これに反した場合は罪に問われる.したがって,この場合は明らかにIBMの秘密情報であることが明らかであるので,少なくとも日本IBMもしくは米国IBMに直ちに返却する必要があった.<ただし,当時の日本にはこの種の法律がないので違法ではなかったと思われる.>

 日本ではこのIBM産業スパイ事件で問題となったこの法律と類似の法律として「不正競争防止法」が現在成立している.企業を退社するときは,その勤務期間中に知り得た営業情報を外に漏らしてはならないという誓約書にサインと押印をするのが一般的になっているのもこの法律のためであろう.私も退社時にサインをした.

IBM産業スパイ事件発覚の日以降,このニュースは連日報道された.6月23日のすべての夕刊にはトップ記事として写真入りでIBM産業スパイ事件が報じられた.現地の逮捕者は日立・三菱の社員とその関連者であった.また,日本に既に帰国した関連社員に対して逮捕状が出された.起訴時には日本在住者は米国に出頭するよう要請された.日米の犯罪捜査協定では相互に逮捕して送還がありうるが凶悪犯ではないので,この事件では任意出頭の扱いになったようである.神奈川工場長K.N.さんやソフトウェア工場システムプログラム部長T.Yさんに後に聞いた所,アメリカに入国すると税関で逮捕されるそうで,時効になるまでアメリカには行けないとのことであった.しかし,彼らも刑事訴訟の法廷外取引の結果,罪を認めるが拘束されないという条件で米国に出頭し盗品移送共謀罪における最高の罰金1万ドルを収めたとのことである.しかしこの話は直接本人達から聴いたことはなかったが,時効が切れたということは聴いたことがある.

K.N.さんは私が(中研)に入社し配属された第7部の主任研究員であり部のNo. 2であった.部長は村田健郎さんであり,K.N.さんとは東京大学でTACを開発した人物として著名な方でである.私の数少ない尊敬していた人物であった.2013年に亡くなってしまった.K.N.さんはHITAC5020,Hiatc8700/8800などを開発し(中研)から日立のコンピュータ事業を束ねる主力事業部である神奈川工場に栄転し将来を嘱望された人物であった.運悪く工場長になった数カ月後にこのIBM産業スパイ事件が発覚し,引責により日立での将来を失ってしまった.K.N.さんの少し前の神奈川工場・工場長は三田勝茂であり当時は社長になっていた.K.N.さんもこの事件さえなければ社長候補と言われていた人物である.

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K.N.さんは工場長をしばらく務めたが,米国での訴訟が起きると降格となりコンピュータ事業部に異動となり,いわゆる窓際族にされてしまった.ある時,大森のコンピュータ事業部に出張した折,K.N.さんが大部屋に多くの部課長と同列の席に座っているのを見た.工場長とは大違いの処遇にとても気の毒な思いであった.その後,K.N.さんは日立を退社し筑波大学教授になり定年の60歳で電気通信大学に転勤された.電通大には65歳の定年まで勤務した.筑波大学時代や電通大には数回訪問したことがあり,レストランや蕎麦屋でごちそうにもなったこともあった.最後は明星大学に異動されて定年まで過ごされた.電通大と明星大の最終講義を聴講しTAC開発の苦労話などとても印象深かった.しかし,IBM産業スパイ事件については一言も話してもらえなかった.当時IBMスパイ事件について情報処理学会の会誌:2003年4月号に高橋茂さんが「プラグコンパチブル・メインフレームの盛衰(2)」を事細かに書いていたが,K.N.さんは「彼はああいう人だ」と云い,自分は墓場までこの話は持っていくと言っていた.共に日立に中途入社であるが入社した事業部により考えが違うのか本来の品性の問題なのだろうか.

K.N.さんは入社直後に(中研)の相模湖クラブに確か3名(益田隆司,久保隆重,そして吉澤)を1泊の予定で「話がある」と言って呼び出したことがあった.当時,K.N.さんのグループは神奈川工場内に(中研)の神奈川分室を作りユニット員全員が長期派遣でHITAC8700/8800の開発に当たることになっていた.これは経産省のプロジェクトである.K.N.さんはこのOS(OS7)の開発に君らが参加して欲しいと願っていることを直接我々のOSグループの年長者である益田さんと我々新人の2名に説得したかったのである.理由は,上司である高橋延匡さんが「HITAC5020/TSSで開発した技術の二番煎じなんか出来るか」といって部下を工場に派遣することに反対していたためである.入社直後であり私には事情が全く理解できなかった.恐らく久保さんも同じではなかったかと思う.後に益田さんは「我々のセンサーは高橋延匡さんなのでK.N.さんの提案にはセンスを持ちあわせていないから」と言っていた.まさにその通りであったろう.しかし,この時の決断が実は我々(中研)のソフトウェア部隊が日立社内で生き残れるか否かの岐路となったのであるがその時は全く予想もできなかった.仮に,この時点で,益田さん,本林繁さん,久保隆重さんの中から一人でもソフトウェア工場に派遣させておけば,その後の工場との関係が深くなり,強い信頼関係も築けたと思われる.K.N.さんは神奈川分室から優秀な部下を工場に移し,その後の絆を築いた.この先にも数名を工場に移籍させたが,いずれも神奈川工場のキーマンの地位になった.

話を元に戻す.事件発生後,社内にはこの先どうなるのかという不安な空気が流れた.コンピュータに関係のない部署の人間は恥知らずの人間がやったことと噂していたようである.しかし日立のコンピュータビジネスは1兆円の売上になっており3万人の社員が従事する大きな柱になっていたので撤退はありえない.また,コンピュータビジネスというのは顧客の重要な情報中枢を担っている.それぞれの顧客分野の情報が日立に流れてくる仕組みになっているので顧客は日立をビジネスパートナーと見做していたのである.

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余談; 高橋茂 さんは私が入社した(中研)ではあまり評判の良くない人として教えられていた.当時は神奈川工場の主任技師で1962年に電気試験所から日立に移り5年ぐらい経過していたようである.当時,日立は東京大学のTACを開発した村田健郎さんと 中澤喜三郎 さんが(中研)が主として開発したHITAC5050,5020E/Fの国産派とIBM System/360対抗のためにRCAの技術導入派との対立があったためであろう.RCA導入は高橋茂さんがリーダーであった.村田健郎さんと中澤喜三郎さん,そして高橋茂さんなど優秀な人材を日立に誘ったのは 高田昇平 さんであった.高橋茂さんは電気試験所で日本初のオールトランジスタであるETL Mark IIIを完成した人で日本のコンピュータに大いに貢献した人物であることを後に知った.慶應大学教授だった 相磯秀夫 先生を電気試験所で指導していたと聞いている.日立定年後は筑波大学に移り,その後退官してから東京工科大学教授・副学長・学長となった.私が日立我孫子経営研修所で1993年6月に部長研修中に講師として登場したが,その折に「君がOSで有名な吉澤康文君か?」と講義の最初に受講生の名簿を眺めて話しかけられたことがあった.実は,その年のはじめ頃,研究所長の堂免信義さんから「吉澤さん,実は先日高橋茂さんから電話で君を東京工科大学に来てほしい,と依頼があったけど,断っておいたよ」と知らされていたのである.堂免所長は高橋茂さんらと共に世に出ることのなかったHITAC 2020の開発をした仲間であった.高橋茂さんは2005年11月22に84歳で逝去されている.



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脱IBM VOS3/ES1開発
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