7.研究・開発を通して得たこと

(1)プログラミング
(2)IBMのinsiderに
(3)基礎学力の重要性
(4)日立社内の気風
(5)日立返仁会
(6)技術者倫理


(1)プログラミング


日立入社して最初の配属先が中央研究所というところであった.これは家の近く(家は国立駅が最も近い)で国分寺駅下車という交通便利なところだった.当時は西国分寺駅がなかったので一駅であった.入社面接に行った折,人事担当主任が配属希望は(中研)としておきましょうと勝手に決めていた.すると2ヶ月の研修が終わると配属発表がありその結果もその通りになった.

配属されてからいよいよ研究所内の配属となる.私は第7部に配属となった.部長は 村田健郎博士 で中澤喜三郎さんと共に 東京大学のTAC を動けるように開発した人で有名人であった.日本に3人のコンピュータエンジニアがいるといわれた一人であった.ちなみに,富士通の 池田敏雄 氏,日本電気の 水野幸男 氏である.この両氏は共に東工大の卒業生である.第7部はコンピュータの研究・開発を行っている.配属されたのは修士卒の2名(久保;京大,岩本;阪大),学部卒3名(奥脇;東京大学,霜田;東京理科大,吉澤;東工大)の5名であった.(中研)には確か31名の配属だったと思うので7部に5名の配属はかなりの傾斜配分である.それだけコンピュータに対する期待が大きかったのだ.私の従業員番号は670167030である.先頭の3桁は社内で付けた(中研)の事業所コード,次の1は男,その次の67は1967年入社,最後の030は(中研)入社時の名簿番号である.この番号は永久欠番のようで退社してからも同じである.<農工大を14.5年勤務し定年退職してから日立健保に再加入したが,健康保険証番号はほぼ同じこの番号である>

部内の配属時には少し恐怖を覚えた.修士修了の2名は大学院での専門性から岩本さんはCPU設計の 中澤喜三郎 主任研究員に,久保さんは当時日本で唯一ソフトウェアの教育が受けられた京大・ 萩原宏 研究室の出身なので,嶋田主管研究員の第7特別研究室に配属が決まった.残りの学部卒をどうするか,村田部長は迷っているようであった.しかし,霜田君は学生時代に(中研)のプログラマとしてアルバイト(今で云うインターンシップ)をしており, 中田育男 研究員(当時)に認められて入社したので,配属は決まっていた.残るは奥脇君と私であった.村田部長は堤主任研究員への配属をどちらにしようかと我々の前で考えあぐねている様子であった.堤さんは当時,磁気ディスクの研究をしており,特に記録媒体の材料を研究開発を課題にしていたようである.堤さんが部長に要求していた人材は,鍍金(メッキ)に興味がある人間であった.村田部長は鍍金をしたことがあるか?と我々に聴いた.奥脇君は機械科の出身でありやったことは無いと答えた.しかし私は4年生の夏に諏訪精工舎で腕時計の鍍金を3週間やった経験がある.しかしここでそれを云うと配属されそうなので,嘘をついて「やったことはありません」と言った.私は数学系の出身なのでとても鍍金などの仕事はできません,とお断りした.それじゃソフトウェアだな・・・と村田部長は云い,その結果,奥脇君が堤さんのところに配属となった.そして,私は霜田君と同じ第7特別研究室に配属となり, 高橋延匡 研究員(当時)の下に入ることとなった.大学の指導教官であった森村英典助教授からは(中研)には嶋田正三さんという立派な統計屋さんがいるし,また森村先生の同級生の氏家さんがいるのでそこに配属してもらったらどうか?と助言をもらっていたので,この配属で少しほっとしたのである.配属は1967年6月8日であった.

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その日,久保,霜田,吉澤が嶋田主管研究員の居室((中研)のR号という建家)にいくと,よく来たな・・・と歓迎の言葉.特別研究室という制度の説明を受けてから職場を案内するということになった.研究室の人達に挨拶ということで部屋を廻った.しかし,人は少ない.嶋田さんは「今日はちょんさんの結婚式なんで出払っているな!」と言っていた.「ちょんさん」とはいい年になっても独り者のことを云うのだそうで,中田育男さんのあだ名だった.そうして,嶋田さんから久保,吉澤は高橋延匡のグループに,霜田君は中田育男さんのグループに配属となった.

最初にトレーニーとしての課題は10題ぐらいのプログラミングであった.当時はすべてアセンブラである.しかし,今のように勉強するための情報は全く揃っていない.マニュアルなどは無い.受け取ったのは立教大学の島内剛先生の書いた;HITAC 5020 Processor という7mmぐらいの冊子だけであった.そこには,バイナリ演算の解説,5020の命令の働き,状態レジスタの説明などが中心でとてもアセンブラを書けるような資料ではなかった.アセンブラの書き方を書いた資料は無い.私達は新井全勝さんの指導を受けることになった.新井さんはとても親切な方で少しおとなしすぎるのが玉に瑕のような人であった.

わからないことは何でも教えてくれた.実は配属の際に村田部長から「職場には大学卒でない者がいる.彼らはどれも工業高校の最優秀者で職場でも有能だ.そこで彼らに学卒者が馬鹿にされないよう負けないで欲しい」と言われていたことを思い出した.このような忠告もあり,まずはプログラミング能力において負けてはいけないと努力した.我々のグループはスーパバイザグループであった.中田さんのグループはコンパイラグループであった.共に世界最高のプログラマ集団であると自負していたのであるが,後に,それはあながち嘘ではないと思うようになった.とても優秀な頭脳を持った人達が集まっていて,プログラミングの腕を相互に磨くことを信条にしていたのである.

しかし,プログラミングという仕事はとても厳しいものである.人間のある種の能力をリトマス試験紙で試しているようなものである.後に農工大で学生を指導することになったが痛切にそれを感じた.血も涙もないコンピュータはただ指定されたプログラムをひたすら正しく冷酷に実行するだけの機械なのである.情報工学科に入学してもプログラミングにヘコタレてしまう学生が随分多いのである.プログラミングというのは不完全な人間に完全を求めているのである.したがって誰でもプログラムを作るとバグは出る.出ない人はプログラムをやっていないプログラマであろう.バグのないプログラムは無いという前提で臨むが,バグがあってもバグの修正が早いか否かでプログラマの価値が決まるのではないだろうか.バグの収束が悪い人はプログラマとしての適性が無いと思われる.頭脳の良し悪しなのかそれとも性格的な問題なのか私には不明だが東京大学,京都大学の出身者でさえもプログラミングが苦手な人を何人か見てきた.しかし,プログラミングが不得手でも情報の世界には外により重要な仕事がたくさんある.プログラミングはできるに越したことはないが,それがすべてではないことも事実である.プログラミングの適性がない人でも日立で責任ある立場になった人を私は見ている.だが,できないよりはできたほうが良いのは事実だ.そしてできればプログラミングに精通するぐらいやると一生の宝を手に入れたのと同じである.一つの言語を精通すれば外は皆ほぼ同じである.

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(2)IBMのinsiderに


国産メーカーに働く多くのエンジニアはその当時はIBMの後追いをしていたのではないだろうか.それをどれだけ意識しているかは各個人の問題かもしれない.私の世代は日本のコンピュータが夜明けを迎えた人達から15年は経っていた.つまり私が就職したころ40代の人達が恐らくコンピュータ第一世代ではないかと思う.1960年代にはIBMがSystem/360を開発し圧倒的な製品群を出荷したことで市場を独占してしまった.我々の世代はまさにこの後の世代でありその影響を最も受けていた.しかも,日本は高度成長時代に突入し極東の小国が徐々に米国の工業製品に打撃を与える時代に入っていた.繊維産業,鉄鋼,造船などが最初は日米貿易摩擦として浮かび上がっていた.1970年代になると日本の電子機器が米国を刺激し始めた.コンピュータは半導体製品の応用製品であるので,半導体の進歩は米国の神経を逆撫でするようになり,徐々に相互の争いの中心になってきた.

我々の年代は1970年代から1990年代初期の間が一番の働き盛りであり,丁度,IBMのSystem/370とその後継である3081Kなどのマシン,そしてOSの分野ではMVS, MVS/SP, MVS/XA, MVS/ESAなどの製品群とまさに正面衝突した世代である.このような状況を象徴するようにIBM産業スパイ事件が起きたと考えられる.圧倒的な力を持つ巨人を相手に弱小な企業が生き残ること,また企業内で生き残ることの厳しさを経験したのだと思う.

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IBMという巨人を相手にひ弱な人間が企業内で生き延びるためにはどうすれば良いのか?この疑問に対する答えは無い.我々はIBMが衰退する条件とは何かを随分議論した.それは IBMが技術的なリードを維持できなくなった時と結論付けた.しかしIBMは上記のようにハードウェアの先進性を次々と打ち出し,これに対応するOSを提供し顧客を魅了し続けていた.日立はIBMの後追いに必死であり決してそれ以上のことはやろうとしなかった.青山の技術研修所で(シ研)の上級研究員研修会が開催された折に講話者としてソフトウェア工場長の不破さんは「我々(ソフト)の研究所はIBMです.皆さんはIBMが新製品を出した時に,その意味は何かを的確に解説できるよう日頃の勉強をしてください.我々には勉強の時間が無いので.」とお話になったことを覚えている.

個人的なことであるが,私は1ドルが360円の時代に私費でIBMの季刊誌であるIBM Systems JournalとIBM Research and Developmentを紀伊国屋書店に出向き購入手続きをしていた.こうやって少しでも早くIBMの動きを知る努力をしていた.つまり,IBM Watcherになったつもりであった.これらの情報を把握するだけではなく,一歩踏み込んで,「今のIBMはどんな悩みを持っているのだろうか」と常に考えて来た.つまりインサイダー(insider)になりきれば先が読めると思ったのである.このような考えは常に心の中にあり,私の問題発見の原動力であった.そして問題さえ見つけられれば,その解決は容易にできるという自信があった.

日立にいれば自分で解決できない課題も必ず相談になってもらえる人材がいたのである.仕事を進めるには自分の力だけでは不可能なことがある.もちろん,自分一人でもできるであろうが仕事は時間との勝負なのであるから,能力を既に持った人間の力を借りたほうが合理的である.人の力を借りても所詮,抱えている問題を最後まで責任を持って解決できるのは自分でしかない.Give and Takeは有効であるがTakeばかりでは会社の中で信用を失う.Giveする力を他の人間に誇示する必要がある.このためにも,研究所内の研究討論会や全社的な技術発表の場で日立の役員や関連会社の役員が参加する年に1度の研究発表会での発表などをする努力をしてきた.また,発表会については学会発表,論文発表,海外発表なども重要である.また技術賞やソフト賞などの受賞も社内に名を売る良い機会であった.会社内での相互の信頼関係の構築は仕事の成果の上に作られるものである.

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(3)基礎学力の重要性


大学では確率過程論を最後の一年間だけ卒論として勉強した.OR(Operations Research)に興味があった.応用数学の勉強をしたことになる.コンピュータの世界はディジタルの世界なので確率論とは無関係に思えるが,実は不確定要素がたくさんあることに気付いた.最初の仕事はTSSであったが,人間がTSS端末でテキスト編集を行う際の作業時間は一定ではない.多くのTSS端末からの入力がコンピュータへの負荷となるので,コンピュータの性能(レスポンスタイムなど)への影響は大きい.また,TSSユーザがコンピュータに要求する仕事(負荷)も各々異なるので一定ではない.このようにコンピュータ外部からの負荷については不確定要素がある.さらにコンピュータの内部においてもコンピュータ資源の利用状況などは時時刻刻変化しており,資源状態も変動している.こらら外部・内部の不確定要素の中でコンピュータの性能の問題が出てくる.

入社2年後に大学で同級の野木兼六君が修士を修了して同じ部署に配属されてきた.たまたま森村研究室で同期の高橋幸雄君の家が国分寺からそれほど遠くない吉祥寺にあり,彼は博士課程に進学した学生であった,ある時,3人で週に一度は勉強会をしようということになり,定時後に野木君とは途中で夕食を摂り私の車で高橋君の家に通うことにした.そこでは,ORの古典的な本を読むことや基本的なアルゴリズムなどの勉強をした.ORの古典では,リニアプログラミング,ダイナミックプログラミングなどを勉強した.そしてグラフ理論の本も読んだ.これらは基礎的な学力をつけるのに大いに役立った.また,卒論ゼミでは途中までしか読めなかったWilliam Fellerの確率過程論を読み続けることができた.(修士過程ではこれを輪講で読んだそうである)

これらの基礎学力というのか基礎的な知識は自分の仕事の中で新しく考案した方式を数学的なモデルとして表現する定式化におおいに役立った.つまり自分の考案した内容を客観的に評価できる表現法となったのである.このモデリングのアプローチにより自分の考案した内容が他人へ容易に説明できること,また効果を定量的に把握できる,などの利点があった.これこそ科学的アプローチであり論文としてまとめる際に極めて有効な手法を身につけられたと思っている.(シ研)の初代所長であった 三浦武雄 さんは時折所員に向かって「君たちは数学を忘れたエンジニアなのか?」と叱ったものである.まさにプログラマの多くは数学のみならず算数も数字さえ忘れているように思える.

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(4)日立社内の気風


「国産の力で」「自力開発」「野武士精神」

入社すると集合教育を2ヶ月間茨城県日立市で受けることになっていた.今はやっていないと思うが,古き良き時代であった.最初の1ヶ月は座学で会社幹部の講話;管轄事業部のPR,人事部からの報告,など.次の1ヶ月は工場実習と茨木地区・京浜地区の工場見学であった.幹部の講話で何度もでてくるのが,日立創業の精神であり,小平浪平の「国産の力で」「自力開発」「野武士精神」などであった.<最近はこのどれも失っているように思えるが・・>

(中研)に配属されると野武士精神だけでなく「プロフェッショナル」という言葉が多くなる.世界中,何処に行っても稼げる人間になれ,という意味であった.特にコンピュータの職場ではこの点が強調されていたように思える.当時の企業は年功序列&永久就職先とされていたが我々の職場ではそのような意識は薄かった.

(中研)入社時の所長は原子力分野の神原豊三さんであったが,半導体出身の渡辺所長の時代になると,「More Active, More Free!」というキャッチフレーズが盛んに言われた.この言葉は逆も真なりということであった.つまり自ら仕事を生み出し成果を出していけば上から命令されることはなく,自由に仕事(研究テーマ選び)ができますという意味であった.逆に,成果を出せずにいると指示待ち型人間になる.するとそこからの脱却は難しいという意味である.私の場合は,幸いにも上司から仕事の上で束縛されることがなくほとんど研究テーマは自分で立て,成果を次々と生み出せた.また,成果がでて,より工場との信頼関係も強くなっていた.

余談だが,大学に勤務してから各種の委員会の場で他の教員と雑談することがあった.その中で,企業に入ると自分のやりたい研究ができなくなるから大学の道を選んだと云う人がいたが,これは日立では違う.成果が出せない人は上司から仕事の指示を受けることになるのは当然である.どんな仕事をしても良いとは言っても,企業に属しているからには企業貢献をするのは前提条件である.また仕事である程度の成果を出すためにはその仕事をやり遂げるだけの精神力が必要である.企業で失敗する人の多くは,最後まで仕事をやり遂げる執念を持てない人間ではないか?しかし成果を出し続けるのは困難な時もある.成果が出ない時にどのように凌ぐのかというのも企業内で生き延びるコツなのではないか.

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(5)日立返仁会


1981年3月に工学博士の学位を東京工業大学から頂いた.その年末に学位取得者は(丸の内)本社で表彰され社長(三田勝茂)との昼食会に招かれた.昼食は普通の社員食堂で出されるものと同じで特別なものではなく,確か¥200位のカレーライスだったように思う.如何にも日立らしい.この席で,社長に対して各々がどのような仕事で学位を得たかを一言説明する.中には仕事と全く関係ない,大学時代に博士号を取り損なった者もいるので,三田社長が少し不満気な顔をするのが印象的だった.日立では学位取得者は返仁会に入会することを勧められる.私は返仁会の番号が904である.

なぜ返仁会と書くのかというと,その心は;変人会なのだが変人会総会をホテルなどで開くときにおかしな人間の集まりなのか?と思われないように,あて字で返仁会としてある.この変人会という名は「どうして彼はこんなことを発明したのか?」「それは,彼が変人だからだよ!」というように「人が考えないことをするように」という精神を持ちなさいという教えなのである.したがって,入社時の(中研)では「会議では必ず発言しろ」「だけど人と同じことを云うな」と厳しくしつけられた覚えがある.


(6)技術者倫理


最近は大学でも技術者倫理教育を必修化する傾向にある.ネット社会になり顔や名前を明らかにすること無く広く発言する機会があるからであろう.技術が社会に及ぼす影響が大きくなっているという背景もある.日立では定期的に研修制度があり泊まりがけでテーマが与えられ,倫理教育の場があった.また社是というのか日立の言葉というのが多くあった.例を上げると:

★企業は人なり,技術は人なり
★己を空しゅうして、誠を尽くせ!(日立返仁会)
★正道を歩め(IBM産業スパイ事件後の管理職への訓示:三田社長)
★有言実行(社是に近い)
★他に空理空論を説くな(社是に近い)<落ち穂拾いの精神,落ち穂発表会>
★顧客に嘘をついていないか(社是に近い)、等などである

(シ研)時代は三浦武雄所長が精神論大好き人間であった.海軍では潜水艦に乗っていたそうで,軍隊の規律を所員に押し付けていたように思える.学会論文や講演での発表などは特にやかましく技術者倫理を指導されていた.大学に勤務してから気づいたが,大学人は驚くべきことに研究者倫理が極めて薄い人達が多くいた.このことからも日立時代には技術者倫理について多くを叩きこまれたことを実感した.小保方問題も根底に大学教員自身の倫理感があるように思える.

このような倫理感の教育をしても事業所によって濃淡があることを知った.(中研)や(シ研)の職場では倫理感は高かったように思えるが,長期派遣での経験から(神),(ソフト)の従業員は一般的に倫理感が低いように感じ取れた.研究所と違って製品を扱っており期日を守るのに必死で余裕無く働かされているという意識が強いためと思われる.このような背景からIBM産後スパイ事件も起きたのかと想像しているが,最後は個人の問題なのだろうか.

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