4.5 日立・IBMの民事訴訟の和解と秘密協定

(1)IBM-日立和解合意書
(2)秘密協定
(3)現場での秘密協定の受け止め方
(4)技術者の倫理教育


(1)IBM-日立和解合意書


1982年9月16日にIBMは日立,NASなどの5法人と社員16名を相手にサンフランシスコ連邦地方裁判所に民事訴訟をおこした.日立は刑事訴訟と並行して裁判を続けることの難しさから,社員の実刑を免れることを条件として罪を認めるという刑事訴訟を法廷外取引で解決した.

その後,民事訴訟は1983年10月6日に和解しソフトウェアに関する秘密協定を締結するという条件を結んだと日本では翌日の夕刊に報道された.その後,日立とIBMの和解について「IBM-日立和解合意書」全訳が日経コンピュータ1983年12月12日号に掲載された.我々はこの報道よりも前にその要点を知らされていたがその主たる内容は以下の通りであった.

(A)用語の定義;指定情報とその範囲,EDP製品,EDPシステム,新製品(既存製品の改良も含む),保護情報(IBMにとって),など
(B)一切のIBMの保有する保護情報をIBMに引き渡すこと
(C)上記保護情報の入手先の人名,所属,経緯などIBMに報告すること
(D)訴訟費用の全額を支払うこと
(E)今後はIBMの保護情報を利用することとそれらに依存することをしてはならない.並びにそれらを開示してはならない.仮にIBMの保護情報を受領した際にはIBMに返却すること
(F)日立は保護情報を入手した時には,直ちにIBMに詳細を通報すること.情報が保護情報か否かは日立が調査すること.
(G)日立が新製品を出荷する90日前にIBMに検査(inspection)出荷すること
(H)上記の取決めについてトラブルが生じた際は(米国)仲裁委員会において問題解決をすること.またそのルールを定めておくこと.


1983/10/7日日経新聞夕刊:日立とIBMが和解;スパイ事件民事訴訟も決着
     <日立の大幅譲歩;新製品検査経営に重荷>


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この和解合意書で注意すべき点は(A)の新製品の対象範囲がEDP製品,EDPシステムであり新製品が改良であっても対象であるとしている点にある.EDP製品は,CPU,端末機,CPUと共に利用する周辺機器,そしてこれらに利用されている半導体を含んでいる.また(F)の条件は日立を他社のスパイのような役割を担わせているため日立は他社との情報交換に制約を受けることになりかねない.また(G)の検査出荷(inspection)を受けて問題ないと判断されないかぎりEDP製品,EDPシステムの自由な販売ができないことを意味している.これも大きな制約になる.これらの条件は極めて屈辱的と言わざるを得ないが,過去の情報取得と利用そして窃盗を試みたことから是非もないことかもしれない.

我々ソフトウェア従事者にとって重要なのは指定情報である.和解合意書に添付された資料から関係する指定情報を抜粋すると,そこには以下の物が含まれていた.①アディロンダックワークブック,②MVS/SP関連情報(アーキテクチャ,ソースコードなど),③31ビットアドレッシングのコーディング,などである.これらの資料は今後参照することは禁止された.特に②の部分は重要であり当時,日立のビッグユーザに提供していたVOS3/SPが使用できないことになるのである.つまりビジネスとして日立のコンピュータ事業は成り立たないことを意味している.

新聞や専門誌にはこのような屈辱的な要件を飲まされたことに対していろいろな憶測記事が書かれていた.ここまで日立の大幅な譲歩が認められるからには秘密の約束があるのではないか,など・・であった.だが,私は素直に日立は罪を犯したことを反省したのであり,そこから脱出できる自信があったのだと信じている.

ただ,表向きの和解表現として,日立はIBMの秘密情報を使用し利益を得ていないとしている.これは刑事訴訟として取り扱った内容に関することであり,Adirondack Workbookなどの情報を元にして利益をまだ得ていないという意味である.秘密協定ではMVSの過去に遡った知的財産権の主張がなされ,その結果,日立は莫大な支払いをしている.表向きの和解合意書ではMVS/SPの著作権侵害については言及していない.その後,日本は幸運なことにバブルの時代を迎え日立も莫大な資金を得るため秘密協定で決まった莫大な支払いができたのではないかと想像している.優良なソフトウェア子会社を株式上場させることもでき,豊富な資金を得てその支払に当てたのではなかろうかと邪推している.

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(2)秘密協定


和解合意書はIBM-日立間の民事訴訟がどのような結末であったかを公にする表向きのアナウンスであり和解の約2ヶ月後に公になった.しかしより重要なソフトウェアの秘密協定の詳細は不明のままであるが,そのおおまかな内容は約2年後に日経コンピュータ(1985年7月22日号)で業界筋の話として報道されている.

そこでは,
①富士通,日立はIBMに対してIBMのOS/VS1, MVSなどの旧型ソフトウェアの技術導入(富士通は1983年7月から,日立は1983年10月から)およびロイヤリティの暫定的支払いをする,
②IBMとの間で著作権の及ぶ範囲の線引(Public Domain, Copyrightsの範囲)とロイヤリティ料金の取決めがなされた,とある.
③この中でさらに,上記の旧ソフトウェアといえどもユーザ数の多い基本ソフトのロイヤリティは毎月5-10億円(当時,富士通は日立の約2倍のシェアを持っていた)を支払うこと.
④そして31ビット版のMVS/XA以降のIBMソフトウェアのいかなる部分も複製を行ってはならないこと,
⑤IBMにロイヤリティを支払う対象になっているOS(MVS/XA型も含まれている)を搭載するMシリーズは日本国外への持ち出し,つまり自社ブランドでの輸出を既に販売している地域以外には認めない,
と報道されていた.

最後の⑤項目はPCMビジネスにとっては深刻であり新たなマーケットの拡大を絶たれることになる.現状の日立にとって問題ないが,当時,急速に経済発展を遂げている中国への進出が絶たれるため,将来の海外ビジネスに制約が生まれた.これによりOEM販売拡大以外に道がなく,両社は新たな販売ルートの開拓に動き出した,と報道されていた.しかしこの予測記事は外れた.当時,半導体の進歩はめざましく,CISCからRISC (Reduced Instruction Set Computer)にコンピュータの潮流があり,RISC+UNIXというパラダイム・シフトが進み,メインフレームに対抗する流れが生まれていた.つまりダウンサイジングによりCMOSワンチップのマイクロコンピュータの時代に入っていくのである.だがUNIXの世界は直ちに覇者なき戦国時代となり,そこにRISC競争も加わり複雑な変遷を遂げる.そして最終的な勝利者となったのは誰なのだろうか?UNIXは赤字の素と当時(シ研)の堂免所長は言っていた.少なくともUNIXで利益を上げた日本メーカーはなかったのではないだろうか?


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(3)現場での秘密協定の受け止め方


和解合意書と秘密協定の要点はおそらく表現を変えて我々現場の者に伝えられた.その時の解釈は以下の通りであった.
(A)和解合意書の中に定義されたIBMの秘密情報(これは今日流に表現するならば知的財産権のこと)を日立は放棄せよという意味は,現場で開発したVOS3/SPのソースコードと関連する文書(ロジックマニュアルや制御情報であるテーブル仕様書など)の一式を放棄する,つまり今後はOS開発の際に見ることができないことを意味していた.
(B)上記で云う秘密情報を破棄せよとは「現場の技術者が頭のなかに残っているIBMの知的財産も破棄せよ」という意味が含まれている.このような考えは米国特有なのか不明だが,後に,AT&Tの保有するUNIXについてもAT&Tは同様のことを主張していた.秘密協定では指定情報をより具体化した指定プログラム(designated programs)が定義されIBMから得たとされるプログラムがすべて細かく指定されていた.これらに関与していた設計者,プログラマはソースコードなどから知得たIBM情報を今後1年間は使用してはならないことになったのである.これは日立がゼロベース(たとえばIBMのPublic Domain情報)から指定プログラムに相当するプログラムを新たに開発するまでの期間を長くするのが目的とも云われていた.つまりLeading Timeを長くしたいという意図である.ここの制約は脱IBMを実現する際に大きな問題となった.つまり,全プログラマがそれまで担当していたソフトウェアに関するノウハウを破棄しなければならず,全く別のソフトウェア開発に従事するはめになるので大きな痛手となる.
(C)さらに秘密協定では,IBMは日立に対して;現在日立の出荷しているVOS3/SPはIBMの知財であるため顧客に課しているソフトウェア料金はIBM価格にてIBMに納めること,という要求である.このため,日立は各顧客にVOS3/SPを一旦回収し(プログラム・プロダクト使用権消滅証明書の提出をお願いし),顧客には新たにIBMとのソフトウェア使用契約書を結んでもらうことを余儀なくされた.この情報はさっそく日経コンピュータにも報じられ衝撃の記事となった(1983年11月14日号ならびに1983年11月28日号).


1982/9/17日朝日新聞夕刊:日立機の販売停止を申請か;IBM社


この記事によると,日立は10月31日付けで最上位最新版OSであるVOS3/SPユーザに対して①年内に新しいものと交換する,②性能,IBM互換機能の提供,使用料は今までどおりを保証する,③システム構成作業の日時を決めたい,などをお願いした.VOS3/SPは1981年2月にHITAC M-280Hと同時に発表されたOSであり,IBMが1980年6月に発表したMVS/SPと同等の機能を持っていた.実際に出荷されたのは1982年の始めであり日本IBMの出荷が1982年1月であったのでかなり早いチャッチアップであった.(参考情報13.ソフトのバンドリングに少し詳しく説明しているが,MVS/SPからIBMは明確なアンバンドリングによるビジネスモデルを作り,ソフトウェアの知財を明確にしたエポックメーキングな製品体系とした.富士通・日立はこの意味するところを深く理解せず,従来通り,IBMソフトウェアはPublic Domainであると見做していた.ただ,一部の人間はこの方針は誤りではないかと思っていたが,全体的にはマイナーな意見であった.元富士通の役員だった伊集院氏の小説;9.引用資料2.3.からは富士通は最後まで一貫してIBMのOSはPublic Domainであると主張しているよう印象がある.)

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MVS/SPは初期のMVS/SP1とその後のMVS/SP2である.後者は利用可能になった半導体メモリの実記憶を32MBまで利用可能とする拡張されたOSであった.従来のページテーブルには12ビットの実ページアドレス表示部しかなかったが,ページテーブル内の未使用な1ビットと連結(concatenate)して13ビットのページアドレスをアクセスできるように拡張したハードウェアをサポートしていた.余談だが,ページテーブルにはまだ空きがあったので同一の方法によりまだ数倍の実記憶を使用できた.後のVOS3/SP21では64MBまでの実記憶をサポートできるよう設計した.

上記の(C)は日立のコンピュータ・ビジネスの根幹に関わる協定内容である.日立のVOS3/SPの価格はIBMのMVS/SPに比べれば低い.しかし,顧客に納入した時点から遡ってIBM のMVS/SPの価格を支払い,しかもこれが継続するということは赤字の垂れ流し状態となるのでビジネスの継続性に疑問が生じることになった.また,顧客からの信頼は完全に失われてしまっている.協定では,日立がIBMの知財を利用し顧客に提供できる期日は1985年3月までであるとされていた.その後はIBMの知財,すなわちVOS3/SPを日立の顧客に提供することをIBMは許していないのである.もしそのようなことになれば完全に日立の国内におけるコンピュータ・ビジネスは終焉を迎える.さらに日立はIBMのMVS/XAに相当する31ビット(2GBまでの)拡張アドレッシングをサポートするOS開発も同時に行うという二重の苦しみにあった.もし31ビット拡張をサポートするOSが開発できないとすれば,たとえVOS3/SPの脱IBMが達成できたとしても顧客に日立のコンピュータを継続的に使用することに不安を与える.その結果,顧客がどのような行動に出るかは明らかである.しかもこの2つのOSを1985年3月までに完成させねばならないという時間的な制約もあった.残り時間は少ない・・・すでに1年半以下の時間しかなかったのである.

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(4)技術者の倫理教育


秘密協定にあるのか不明だが訴訟の中で日立は技術者の倫理教育をどのように行っているのかという説明を求められたそうである.これは部課長会議の報告として聴いたことがあった.このためか,和解の前後において主任技師や主任研究員以上は御茶ノ水本社に集められ三田勝茂社長から少し長い倫理教育の訓話を受けた.この訓話は昇格した時点で必ず本社に出向いて全員受けることになった.私も指定された日時に御茶ノ水本社にて訓話を受けた.三田勝茂社長は「正道を歩め」ということ,また,「世の中には変わるものと変わらないものがあることを理解せよ」というお話をされていたのを覚えている.変わらないことは,犯罪でありこれはやってはならないことである.嘘をつく,盗む,殺すは人類が神代の昔からやってはならないことで変わらないことであると強調していた.つまりIBM産業スパイ事件はやってはならない「盗む」をしたのである.



(閑話休題)


1983年9月1日大韓航空機撃墜事件があった.実はその翌日にロスアンジェルスから成田に帰国した.約2週間の米国出張であった.最後の夜は東京工業大学時代に応用物理学科の森村英典研究室で一緒だった抜井義昌君のご自宅を訪問しグリフィス天文台からロスの夜景を楽しんだりした.彼は当時日本IBMの社員でロスに派遣されCadam社と仕事をしていた.IBM産業スパイ事件の直後の出張でありIBMの社員との接触は本来は避けなければならないのだが,同窓生であり一年間共にしたきたので全面的に信用していた.その日は夕食もご自宅で御馳走になった.その時,冗談で「これっておとり捜査じゃないよな!」なんて馬鹿なことを言ったものである.

この出張の振り出しはボストンであり雨の降る夜に飛行場に着いた.会社はなるべくタクシーを避けて(節約のため)公共交通を利用せよとのことであったが,土地勘もゼロなのでタクシーに乗った.黒人の運転手だった.最初,何かを聞いてきた.英語は不得手であるが「Bridge or Tunnel?」と聞こえた.何の意味かさっぱりわからないので,「your choice」と適当に答えたがどうも橋を渡ってから行けども行けどもHoliday Inn ホテルに着かない.いろいろと話しかけるが相手にされない.でもやっと到着した.会社からは領収書を貰うようにと指示されていたので,書いてもらう.支払いを済ませてロビーに入ると,警官が出てきた.IBM産業スパイ事件直後で日立の社員なので何かあるのかな?と一瞬ヒヤッとしたが,警官は「いくら払った?」と聞いてきた.領収書をもらっているので,それを見せると,これは相当高いと言う.警官は電話をかけ始め,どうもそのタクシー会社にクレームを付けていたようだ.いわゆる,雲助タクシーだった.後でこの話を会社の上司に話すと,「たったの10ドル位余計に払ったぐらいで済むなら安いものだよ」と言われた.その知り合いは,ボストンの地下鉄では拳銃をつきつけられて20ドル取られた経験を話してくれた.

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脱IBM VOS3/ES1開発
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