11.富士通の場合

富士通の対IBM係争は長く続いた. IBMが1982年10月22日に富士通のOSIV/F4 MSPがIBMのMVS/SPをコピーし知的財産権を侵害しているとして経産省に通知し翌日,富士通に警告通知を正式に行った.この紛争は1983年6月29日和解と秘密協定という形式で日立と同じように幕を閉じる.これをフェーズ1とすると,第二幕は1983年10月に和解契約にある富士通の新OSに対するIBMの製品検査(inspection)から始まる.この検査で問題となったのが富士通のSPLという開発言語にあった.この詳細は 5.脱IBMの閑話休題1 で少し詳しく述べたつもりである. 9.引用資料 2.にある伊集院氏の「雲の果てに」にはこの詳しい経過が説明されている.

IBMは1984年12月に製品検査の結果,富士通は悪質なコピーをしていると通告し12月29日に富士通・社長らにその実例を示し説明している.いろいろな交渉があったが結局,1985年7月に米国仲裁協会(AAA: American Arbitration Association)にIBMは仲裁提訴を行いフェーズ2が始まる.相互に激しいやりとりがあったが,AAAはIBMの主張する知的財産権に深入りすることなく「富士通の顧客を守ること」「自由な競争原理を維持すること」という考えに立ってその解決として,1987年9月15日に「意見書」「命令書」を出す.詳細は9.引用資料の6.日経コンピュータの記事に詳しい.その後AAAは1988年11月29日に最終裁定を下し,この第二幕が閉じることになる.しかしこれで全てが終わったわけではなく,AAAの定めたSF(Secured Facility)の運用などから第三幕が始まり紛争は1997年7月までの15年間に渡った.この間,富士通はIBMのソフトをコピーしたと一度も認めていなかった.この幕引きの時代には,皮肉にもメインフレームの時代は終わっていたのである.

話を1982年の時代に戻すと,当時の富士通は日本最大のコンピュータメーカーであり,日立の約2倍のマーケットシェアを持っていた.富士通とIBMとの係争は伊集院丈の「雲を掴めー富士通・IBM秘密交渉」と「雲の果てにー秘録富士通—IBM訴訟」の本に詳しく述べられている.登場人物はすべて実在の人物であるようだが,偽名となっている.富士通に勤務した友人から,この小説の登場人物名と実名との対応表を頂いたことがある.

IBM産業スパイ事件の起きる約10年前は,コンピュータの自由化に伴い1972-1976の間に行われた通産省指導によるコンピュータ業界再編があった.このとき富士通は 池田敏雄 氏の強い意志と日立の 高橋茂 さんの考えが一致してIBMプラグコンパチブル・マシン(PCM: Plug Compatible Machine/Manufacturing)に両者が路線を変更することになった.日立はIBMのSystem/360対策によりRCAとの技術提携をしていた.RCAのマシンはIBMに類似のマシンではあったが,似て非なるものであった.命令体系はほぼ同一であった.ではなぜこの両者がそれまでのコンピュータ路線からPCMビジネスに舵を切ったのかについては,「 12.なぜPCMなのか 」のページに説明する.この路線切り換えが必然の結果か不明だが,不幸なことに産業界最大のIBM産業スパイ事件につながっていくのである.

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脱IBM VOS3/ES1開発
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