1.はじめに

1982年6月22日(火曜)に米国にてIBM産業スパイ事件が発生した.このニュースは日本では6月23日のNHKテレビ朝7時のトップニュースとして報じられた.私は8畳和室を寝室としていたが,その部屋に設置してあったカラーTV(日立のポンパ)を丁度午前7時にスイッチを入れた.と同時にこのニュースが飛び出てきた.映像を見ると何とよく知った人たちの顔が後ろ手錠をかけられロープで次々と繋がれているではないか.つまり(株)日立製作所関係者が引き起こした事件であることは明白であった.後に三菱電機の社員も逮捕されたと報道された.

当時は車通勤をしていたのであるが,大変なことが起きたと慌てて朝食を摂り車で大急ぎで会社に出かけた.大抵は7時40分ころの出発であるがその日は確か10分ほど早く出発したと思う.勤務先は(株)日立製作所・システム開発研究所(略して(シ研))であり,川崎市多摩区王禅寺であった.私は第3部307ユニットという部署に勤務しており主任研究員.ユニットリーダー(UL)は久保隆重主任研究員であった.第3部長は石原孝一郎である.もちろん職場はニュースの話題で一杯だった.

ここでは日立時代に奇しくも遭遇した大事件とこの危機を脱出するために社員が一丸となって切り抜けた日々を思い出しながら語りたい.この事件は日本の情報産業を大きく方向転換することになりソフトウェアの著作権問題のような知的財産権の保護,不正競争防止法,などの法律の整備が進んだ.日立勤務時代は重要顧客のコンピュータシステムに生じた各種の問題が重役会議にとりあげられ,その問題の解決,つまり火事場の火消しを数多くやってきた.それらは通常,研究所長に呼び出されて命じられるのが常であった.それらの中でこの火消しは最も大きな火災であった.

IBM産業スパイ事件の火消しは私がそれまでに培ってきた技術力だけでなく人間力や人間関係などを含めた総合的な力が発揮できるか否かの試金石であったと自分では思っている.仕事というものはすべて総合的な人間力が問われるのであるが,この仕事はまさにこの言葉が当てはまる.そしてこの事件の解決を果たしたならば,実は日立を50歳で退社する覚悟をしていた.その理由は,IBM産業スパイ事件は日立という日本を代表する大企業に働く一部のエリート社員が起こした明らかな犯罪であり,このような職場で働くことに誇りを失ったためである.しかし日立に対して決して恨みは持っていない.経営者に対してこのようなことを云うのはは申し訳ないが,利益追求という金儲けよりも技術開発を通して人を育てることを優先的に考えいるとしか言えない良い会社である.事件発生当時,私は37歳であった.私にとってこの事件の終結は1984年12月31日と思っている.丁度40歳の誕生日を迎えた直後であった.

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脱IBM VOS3/ES1開発
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