5.4 VOS3/ES1の開発と成果

年末表彰ならびに感謝


日立の年末表彰ではVOS3/ES1の開発に関連して多くの賞を頂いたのでここにそれらを示すことにした.これらの研究・開発は私が発案から推進など中心になり,がむしゃらに働いてきた結果であるが,当然,一人でこれらの業績をあげることは不可能であり,この物語の中に登場した多くの方々の集積物であり協力の賜物である.また,登場してこなかった大勢の方々の協力があったのは間違いない.ここで各位に深く感謝の念を表したい.

★事業所技術賞1等;31ビット拡張アドレス用メモリ制御技術の開発
★事業所技術賞1等:VOS3/ES1の開発
★事業所技術賞1等:拡張チャネルシステム制御方式およびスーパーコンピュータ制御方式の開発
★事業所技術賞2等:VOS3/SPの開発
★事業所技術賞3等:VOS3における拡張プログラム読込み方式
★戦略特許賞銀賞:記憶階層制御方式(拡張プログラムローディング)
★戦略特許賞銅賞:仮想記憶における領域管理方法(CSBR)

事業所技術賞が多いが理由があった.この仕事はIBM産業スパイ事件の後始末という色彩が強いため全社的な「社長技術賞」を日立として出すわけにはいかなかったのである.

我々はVOS3/ES1の開発によりIBMのMVS/XAに追いつくことができた.これによりIBMとの距離を縮めることができた.また,VOS3/ES1の開発と同時に,日立のビジネスの中心であるVOS3/SPに代わる脱IBMを果たしたVOS3/SP21を同時に開発することが可能になった.我々はVOS3/ES1の開発を完了させたことで工場派遣を打ち切った.VOS3/SP21のテスト,デバッグや検査工程は特に問題がない限りソフトウェア工場に任せることにした.VOS3/ES1と同一ソースコードをコンパイル時のパラメータでVOS3/SP21が生成されるように工夫されていた.特に工場から問合せもなく予定どおりにVOS3/SP21も出荷された.

IBM 3081Kには拡張チャネルが装備されておりMVS/XAはそれをサポートしている.そこで1985年にはVOS3/ES1に拡張チャネルをサポートするために(シ研)から二度目の派遣となるが木下俊之君に果たしてもらうこととし,部下に上野仁君を付けソフトウェア工場に長期派遣させた.彼らは今度も工程を守り見事に完成させたため上記の表彰にこの賞が入っている.

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サバティカル


13ヶ月に及んだ苦難・苦闘の日々が終わり(シ研)に戻った.この間,新しい課題の発見という重要な任務を完全に忘れていた.研究所に戻ると,早速,次の仕事を作る必要がある.新しい研究テーマの立ち上げである.リーダの久保さんと相談し31ビット時代,半導体の進歩による大容量実記憶の利用可能性,などをヒントに日立のメモリ戦略を考えることにした.この詳細は次に詳しく述べるのでここでは省略する.

予定どおりVOS3/ES1とVOS3/SP21は順調に出荷され,大きな社外事故の報告もなかった.したがって,この夏の賞与は少し期待できると思っていた.13ヶ月の超重労働に対する見返りがあるのではないかと期待した.しかし,残念なことに賞与はたったの+15万円程度であった.これは前回の賞与の6-7%アップである.所長からは「本社人事に頼んでみたのだが,日立はいくら業績に貢献してもそれを金銭で報えることはしない,ということでこの査定額が日立としての最大ということで我慢して欲しい,と言われた.当時の日立はコンピュータ分野の売上は3兆円,従業員は3万人と言われていた.これだけのビジネスをある意味救ったと自負している.正直言って,残業時間にすると1300時間をはるかに超えているはずだ.せめて残業代の1,000万円は欲しところだ.さらに云うならば,(ソフト)で生産性を画期的に向上させていたOSTDの寄与度を考えれば,数十億円以上の効果を生んでいたのだ.せめて,これらをまとめて3億円ぐらいは欲しいと思った.まさに今で云うところの超ブラック企業そのものである.脱IBMに失敗しても責任は取る必要はなく,また激闘の末に成功してもそれが当たり前であり報酬はほとんどない,という終身雇用&年功序列の良い時代だったのだ(嫌味ですよ).

このためか,その年にサバティカル制度を作ってくれた.1年間,希望すれば世界中,どこに行ってきても良いという骨休みであった.そこで,サバティカルとしてサンフランシスコ州立大学のバークレイ校に知り合いの教授がいるので,そこの客員研究員として滞在することにした.一人の教授はProf. Domenico Ferrariでもう一人はProf. Alan J.Smithである.Prof. FerrariはBSD(Berkeley Software Distribution)のプロジェクトリーダであった.また,Prof. Smithはコンピュータアーキテクチャを専門としていた.Prof. Smithの論文の幾つかはAWに掲載されていた.

1986年7月初旬に米国に飛んだ.初日のバークレイは抜けるような青空で,自由とはこれだ!と思えるような気分になり米国の良さを全身で感じ取れた.この国に生まれていれば今頃は大成功で億万長者だったのに・・・など想像したものである.この大学はカリフォルニア州立大学の本校であり,レベルが最も高い.ノーベル賞受賞者が10人以上出ている.また,サイモンとガーファンクルの歌で有名になった「卒業」という映画のロケ地でも有名である.セーザータワー,セーザーゲート,等.だが8月の下旬に久保さんから電話連絡があり,9月初旬には帰国するように,と言われた.責任ある立場になるのでサバティカルは申し訳ないが打ち切りです,と.仕方なく,9月のLabor Day直後に帰国し,短いサバティカルは終了してしまった.つまり,またしても騙され,使える人間はもっと働かされた.さすがは優秀な経営者が揃っているものである.この間,短かったがサンフランシスコの街を十分知り尽くすことができた.また,家族を呼び,ロスアンジェルス,アナハイム(ディスニーランド),グランドキャニオン,ラスベガスなどを旅行できた.こうして短いサバティカルは終わった.この間に,もし日立を解雇されこのまま米国に残って生きて生きて行けるのか?と自問したりもした.人間の価値って何か?を真剣に考えた時もあったが,頑張る力さえあれば生き残れるし,今迄それでやってきたという自信もあった.

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脱IBM VOS3/ES1開発
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